2009年2月24日火曜日

「京都らしさ」について

京都大学時間雇用職員組合 Union Extasy : 首切り職員村 スト初日
京大での「首切り職員村」――わしら、スターダストや
エクスタシー、京大5年で雇い止め問題で、首切り職員村
ひでえ話だ。
何年も同じ状況でいなければいけなくて、そして、首を切られる。
そういう立場の人間について「自己責任論」を言う馬鹿にはなるまい。
そうしないとうまくいかなかった「やむをえない事情」とかもあったのかもしれない。
ま、「難しい話」は良いとして、このYou Tubeの動画に出てくるやつ、見たことあるな、と思った。
たぶん吉田寮のライヴで、毎回ずっと踊ってたやつじゃないか?
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で、色々思い出した。

毎朝豆腐屋でバイトしてる30くらいのにいちゃん(京大学部8回生くらいまでいった人。卒業したかどうかは知らない)が、毎週一日、自宅の下宿を「カフェとして開放してサロンのように芸術について語り合う」場所があったなあ、とか。
「シチュアショニストとやらの理屈をこねれば空き部屋を占拠しても構わないらしい」から、シチュアショニストについて知りたがるやつがいた、とか。
「内容は読まないけど、とりあえずネグリの『帝国』もっときゃ、『サヨク』って言える」から『帝国』手に入れてたやつとか。
「キョートット出版」ってあったなあ、とか。
立て直す前の京大のA号館は、夜は好きに使って良かったから、ドラム持ち込んで練習したなあ、とか。
立て直す前の京大のA号館の地下にはなぜか酒場があって、建て直すからA号館を潰す最後の夜にドラム叩いたなあ、とか。

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ま、違和感感じつつ、若かったので楽しかった、と。
で、今となって大事なのは、何に違和感を感じてたか、だと思うのだけど。

S/N 1995 京都 - キョートット出版の
「ローカルに生きていながら、世界に生きている感覚を持つこと。/ローカルに表現しながら、世界に対して表現すること。」というより、世界の中に生きている感覚を持っているかのように、世界に対して表現しているかのように感じながら、でも結局のところ、ローカルに生きて表現していた(る)だけじゃないか、と思って、違和感を感じてた気がする。

コミュニケーションは、基本的には誤解の産物だから、「世界」とやらに向かって叫んでいれば、「世界」とやらが応えてくれることもあると思う。
「世界」に「進出」した人も多かった、と言われていたような気がする。
(僕は世代的には、ダム・タイプじゃなくて、ファンタスティック・プラスティック・マシーンでもなくて、MONDO GROSSO。)
ローカルに生きて表現することが悪いわけはないし、誤解の産物でも「世界」につながるなら、それはそれで面白そうだから良いと思う。(「世界」って何やねん、と思うけど。)


じゃあ何が嫌だったのかというと、世界に向けて視野が広いぜみたいなつもりでいたのかもしれないけど、けっこう、身近な色んな人々に対する目配せがなかったこと、かな。
なんか説明がめんどくさくなってきた。
要するに、僕は、偉そうなやつが嫌いだったのだ(なのだ)。

望むべくは、「アートな人々」って「世代」であって欲しい。
「脈々と受け継がれるアンダーグラウンドでアートな京都」って、めんどくさいじゃないか。

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