2008年2月25日月曜日

引越してます。

茨木市駅に向かうのも最後。のはず。
一年。
眠い。

後4時間

なぜか夜中から、鳥居みゆきを見た後、延々と『ふしぎの海のナディア』を見せられ続けています。Yahoo動画ってやつは便利ですな。

2008年2月22日金曜日

兜台1丁目自治会

妻はニースで学会発表するためのペーパーの締切とやらで明日か明後日まで一足先に学研都市に泊り込んでいるのだけど、「引越しに伴う荷物の整理」みたいなことはもう無理として、その前に、月曜日に引越しできる状態になる気がしない。
腰と指先が痛い。

2008年2月19日火曜日

五日間の成果

コピーした量だけならUSAでのほうが段違いに多いけど、作れそうな物語はこっちのほうが多い。それは場所じゃなくて僕の視野が広がったから。
あと、イヤフォンが壊れた。ステレオ音声にならん。


良い写真。


なぜか写真が消えてたからリンク元からローカルに保存してアップロードしようと思ったら、リンク元からも消えてた。


ので、GIGAZINEから拾っておくことにした。
おそれ知らずな子供たちのかわいい写真いろいろ - GIGAZINE

2008年2月18日月曜日

博士の学位を得た。

正式に何日からなのかは知らないけど、博士様になりました。Dr. 中川になりました。課程博士ですが、何でも区切りがつくのは良いことだと昭和30年代の『音楽芸術』読みながら思ってます。
時代は変わる。
「博士」号の軽さは知ってるし、まあ学位はしょせん学位でしかないのだけど、嬉しい。
博士号の賞味期限が切れる前に何かを何とかしよう。
とりあえず名刺作ろう。

2008年2月17日日曜日

吉見俊哉『万博幻想―戦後政治の呪縛』

以下のようなことを考えました。
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万博幻想―戦後政治の呪縛 (ちくま新書)
吉見 俊哉
4480062262


「明治以降の日本の芸術制度」について勉強する準備として読んだ『博覧会の政治学―まなざしの近代』の続編らしいし、ヤノベケンジについておべんきょーするサブテキストとして、DVDで『公式長編記録映画 日本万国博』と一緒に、と思って読みました。ので、序章と一章と終章くらいしか読んでません。必要ならトピックを拾い直せる程度にしか読んでないので、あんまし細かなトピックはしっかりさらってません。
まあ居酒屋でするには面白かろうお話としては、1970年の日本国万博は、「大阪万博」ではなかった(都市名が付けられた万博ではなかった)点で珍しく、それは、これが紀元二千六百年記念日本万国博覧会とやらの復活版として位置づけることができるものだったかららしいです(40-43)。
あと、山田洋次の『家族』という映画は面白そう。
東京オリンピックと共に(6年違うけど)「未来都市」を志向した万博公演が荒廃した跡地に阪大の工学研究科があって昨日荷物取りにレンタカー借りて行ってきたのだけど、なんとも心が荒涼とするところだな、と思いました。
対象を明確にして、対象に対する基本的な視座をコンテクストの中に位置づけ、対象に対するアプローチを(四つ)整理する、という「序章」は、学術的な博士論文を書く上でとても参考になると思います。
でも、『博覧会の政治学』とこの本の間にけっこうな量の本が出てるなあ。『「声」の資本主義―電話・ラジオ・蓄音機の社会史』もそうで、この本、もう絶版なのか。というか、もう10年以上前の本なんですね。「声」という問題圏をアップデートするものって、日本語ではこれ以降ないんじゃないかな?なんか忘れてるかな?

博覧会の政治学―まなざしの近代 (中公新書)
吉見 俊哉
4121010906

公式長編記録映画 日本万国博
間宮芳生 谷口千吉 石坂浩二
B0008JH79A

家族
倍賞千恵子 井川比佐志 笠智衆
B000O17BVG

「声」の資本主義―電話・ラジオ・蓄音機の社会史
吉見 俊哉
4062580489

2008年2月15日金曜日

MOONGIFT: » R.E.Mが新曲ビデオをオープンソースで公開「Supernatural Serious」:オープ�


MOONGIFT: » R.E.Mが新曲ビデオをオープンソースで公開「Supernatural Serious」:オープ�

Yasunao Tone - Solo for Wounded CD

以下のようなことを考えました。
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Solo for Wounded CD
Yasunao Tone
B000003YU8

下みたいなポスト書いた後、このCDを聴いて感動に打ち震えた。メジャーを志向しつつも(してるかな?)、僕の嗜好は幅広くマイナーなものも含んでるのだ(「しこう」って言葉が多い)。

CDの裏にテープを貼り付けて、そのCDをCDプレイヤーにかけて再生させて、意図的にthe error correcting systemが処理できる以上の誤差を産み出して、「ノイズ」を作る、という音楽。つまり、CDのジッター音が再生され続ける。Ovalとの違いは、ジッター音を「再構成」はしないこと。ジッター音をそのまま使うとOvalのような音にはならないと思うので、Ovalは、かなり(どの程度、どのように、かは不明)「再構成」していると思う。
CDプレイヤーという、今の(?一t昔前の?)僕らが「音楽」に触れるために最も身近なインターフェース(とはいえ、僕はもうCDプレイヤーを通じて音楽を聴くことはほとんどなくて、99%はoggで聴いてるけど)が内在的に持っているメカニズムを、騙して宥めすかして(?)搾り出した音の連なり。

この僕の「感動」を豊かに物語る能力を身につけなければいけない。この音響作品(音楽)の"素晴らしさ"を、自閉した領域内部にしか通用しない言葉遣いではなく、語ることができねばならない。で、この音響作品(音楽)の「狭さ」にも言及しないといけない。
リオタールを読んで以降の僕は、大きな物語を語りたいとは思わないけど、小さなものに名前をつけてそれをどこかに位置づけるという作業を継続していかねばならないと考えるようになったので。

でもどうしたらいいんだ?

「案:『音楽』を運搬するメディアが、実は、一秒後の音の行方を予測することもできず、こんなにも多様な相貌を持つ音を産み出すことができるメカニズムを持つものであることを露にする音響作品(音楽)。」
なんかどんどん「詩的」な表現に向かってしまいそうだ。この「多様さ」なんか、疲れてる時には「ただの平坦なノイズ」としか聴こえないし。

個人的なことを言えば、「芸術」の効能の一つは、何かに対する、それまで持っていなかった新しい視線を教えてくれることだと思う。なので、この音の連なりを聴くと、CDプレイヤーとか「音楽」を運搬するメディアに対して今までとは違う新鮮な視線を持つことができるようになるので、この作品は面白い。
終わったら僕の耳は安堵するので、何回も聴き直すことができるものではない。でも、「音楽」とは必ずしも何回も聴き直すべきものとは限らないと思う。
なかなか人に薦められる音楽じゃないなあ。

大谷能生『貧しい音楽』

昨夜やっと読んで、以下のようなことを考えました。
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貧しい音楽
大谷 能生
4901477358

僕はなぜ「この手の批評」を全く受け付けないのか?個人的な問題として考えていくこと。

日本の電子音楽東京大学のアルバート・アイラー―東大ジャズ講義録・歴史編にクレジットされてる人の本だし、帯に「ジョン・ケージは関係ない。」と書いてあるのだから、僕の興味や疑問に色々な方向から応えてくれるだろうと見込んでいたのだけど、個々のフレーズが頭に入ってこない。けっこうな割合は僕の問題で、けっこうな割合はこの本の問題だと思う。

この本は真摯に書かれていると思う。そして「日本の即興演奏」という対象の良さを真摯に追究しようとしていると思う。ある種の音楽を豊かなものとして感じるための試みなのだから、こうした方向性の文章は書き続けられるべきだと思う。音楽を貧しく聴くことしかできない人間というのは、必ずいるのだから(この場合の「音楽」が何か、とか「貧しい」とはどういうことか、とか、貧しく聴くことの是非とかはおいといて)。

ただ、「最新の音楽に関する最新の思考」であるかのような言葉が並んでいるけど、

1.「現在の音楽」を取り巻く状況に関する歴史的考察 と、
2.今までになされた思考への参照 

が無さ過ぎる。そして、

3.思考対象(「日本の即興演奏」)や自らの思考が属するコンテクストの狭さへの言及

が無い。僕が受け付けないのはこれが原因かな?「批評」とはいえ問題だと思う。
詳しくは自分用にメモしておくとして、以下少し、批判して誉める、と。

以下の感想から分かるように、ある程度でも頭を動かして批判的に読んだのは、基本的に「Improve New Wave」と「ジョン・ケージは関係ない」だけです。


「批評」とは、ある対象に触発されて、その対象から離れた地点で思考を展開させ、結果的に、その対象からは引き出せない類の思考を新たに生み出す、ある種の芸だと思う。で、「批評」は、「学問」ではないのでいちいち先行文献を細かくチェックする必要はないと思うけど、あまりにも先行する思考を無視し過ぎるのは「先行する思想を無視する人々」の間で「自閉」していくことでしかないと思う。
なので、自閉していく思想は批評ではないと思う。

それ以上に問題なのは、思考対象と自らの思考が属するコンテクスト(の狭さ)への言及が無いので、ここで考察される「音、聴くこと、音楽を作ること」が、かなり限定された領域での「音、聴くこと、音楽を作ること」でしかないことがほとんど言及されていないことだろう。というか、されてるけど前面には出されてないので、きっと学生たちがこの本をやたら拡大解釈してレポートを書きそうなのが僕は怖い。だから、『貧しい音楽』でなされる「音、聴くこと、音楽を作ること」等々にまつわる思考は、まるで「根源的な」もののように思われる、という新興宗教的なものにまつわる問題があると思う。

「ケージの無目的な音楽」とは異なるものとして「即興演奏」を位置づけようとするのは理解できる。しかしだからといって、「音」に関する思考を結局のところ「音楽」にしか回収しないのなら(ある種の音楽全体主義の立場に立つのなら)、それは、かなり大きな領域を無視して排除していると考えるべきだ。ここで言及されるジョン・ケージはせいぜい1960年代までのケージな気がするし、「音楽」以外の領域に「音」を開放していこうとした、1970年代半ばのケージ相対化の動き(ケージ的なニュートラルな音響理解を否定し、相対化しようとしたサウンド・アーティストたち)、あるいは、そうしたアヴァンギャルドな音楽ではない音楽(クラシックでもジャズでもビートルズでも初音ミクでもZOOでも田端義夫でもまいこーじゃくそんでも吉田たくろうでもなんでもいいけど)や、声を用いた芸能やら芸術やら、あるいは、芸術以外の領域における「音、聴くこと」にまつわる実践や思考が排除されるじゃないか。
ちょっと悪意を込めて解釈すれば、ここで「ジョン・ケージは関係ない」と述べることで作り出される領域は、ジョン・ケージとは異なる独自の領域を切り開いた音楽のための領域、というよりも、ジョン・ケージ(やその他の領域)を無視することで作り出される自閉した領域でしかないんじゃないか、と解釈できてしまう。「ジョン・ケージは関係ない」というのは、ジョン・ケージとは異なるオリジナリティ溢れる領域がある、という意味ではなく、小島よしおのように「そんなの関係ねえ」と述べることで、自分(たち)をオリジナルな存在として表象できる領域を確保しようとするだけの言葉に見えてしまう。
オリジナリティを獲得する一番の早道は、比較対象を減らしていくことだ。極端な話、自分以外に音楽を作る人がいなければ、自分が作る音楽は全てオリジナリティに溢れたものになる。あるいは、自分が作り出す音楽に似ているもの、自分が作る音楽に影響を与えたものを無視すれば、それは「オリジナル」なものであるかのように見える。ってことは、ジョン・ケージなんか関係ねえ、と宣言することは、ある種の「父殺し」に見えてくる。そしてこの種の「父殺し」は、ケージ以降の世代がずっとしてきたことだけど、少なくともケージ以降の世代は、ケージを「無視」はしなかった。
「ジョン・ケージは関係ない」という言葉は帯には持ってこなくて良かったんじゃないか?この本の目的にとってはそんな大きなテーゼでもないんだし。


ただ、この本は、矮小化して解釈して「日本の即興演奏」が持つロジックの「解説」だと考えると、素敵だなあ、と思う。
真摯に思考されて書かれているし、「日本の即興演奏」なる対象を「良いもの」として味わうためにはどのような方法が可能か、ということに関する示唆を得ることはできるのだから。
僕も「マイナーな音楽」はやぶさかではないけど、僕にはこういう真摯さはあんましないし、こういう文章は書けんしなあ。
なんやかや思うけど、「読み手」に「音楽」の魅力を感じさせる文章を書けるってのは羨ましいなあ。僕もがんばらねば。

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参考1:僕が眼にした順番
大谷能生の新・朝顔観察日記 ? 「貧しい」感想


大谷なんて関係ない! - musicincoloursの日記
:初めて「トラックバック」とやらを送ろうとして、Bloggerにはその機能が無いことを思い出してやめた。


大谷能生の新・朝顔観察日記 ? 新商品のお知らせ その他


北里義之『サウンド・アナトミア』も、何か? - musicincoloursの日記


10年の軌跡 貧しい音楽 - 大友良英のJAMJAM日記


参考2:ウェブサイト
大谷能生の新・朝顔観察日記


参考3:好意的な書評が多い。
[Long Article] 2007年のベスト10:野々村 禎彦:関係ないけどYasunao Tone: Noise Media Language。一年前にamazon.comに「予約注文」したのに「品切れ」で買えず勝手にキャンセルされ、その後、ずうっとamazon.co.jpに予約し続けていて、昨日発送のお知らせが届いた。楽しみだけど引越しのどさくさでチェックできるだろうか。

参考4:最初に出てくる、デューク・エリントンの演奏を録音するレコード初期の映像
2月4日にポストしたこれだ。


えらい怒ってる。人が一生懸命した仕事をけなすというのはどうなんだろう。怒る必要がある時はあるとは思うけど、「音楽批評」とは、それほど聖なるものなのだろうか。
いい話を聞いた - musicincoloursの日記

2008年2月13日水曜日

けっこう雪

僕がアーカイバル・ワークをしてるからだろうか。
帰れん。

2008年2月12日火曜日

京大で昔の雑誌を調査するのって、けっこうめんどくさい。ラップトップで作業する場所がない。

2008年2月11日月曜日

センチメンタル・和歌山

和歌山商工会議所
シカゴ郊外の日本食スーパーにおいてある日本語のフリーペーパーにはこのような情報が流れているらしい。



6.京橋プロムナードから見る夕焼け
高校の時、夜中に同級生の誰かがこの橋の上に吐き散らかしてた記憶がある。

The kakophone and other kakostuffs

The kakophone and other kakostuffs: "the kakoworld. Nothing essential, just fun.":この色々なサイト、すごい面白い。

2008年2月10日日曜日

Sun Ra and His Arkestra - Music From Tomorrow's World

Music From Tomorrow's World
Sun Ra & His Arkestra
B00006YXFY

ほー。
シカゴを離れる直前のアルバムはこっちでした。
間違えた。
なんつうか、音だけ聞いても、まだ(?)あんまし何ともないっす。

2008年2月9日土曜日

小杉武久@国立国際

なんか色々、世間ずれしていくのだとか「おとな」的なことを試みるのだとか何とかかんとか考えたつもりだけど、なんか結局、たんに色々な人と話ができて面白かったな、という予餞会。
あんまし人々には「危機感」はなく、「人文学的知」とはいったい何かもよく分からないけど、まあ、見栄とプライドをきっちり確保しつつスーパーな速度で会話する先輩はすげえなあ、と思った。というか、たぶん、久しぶりに「先輩」がいたんだな、あの場には。あの場が今後何年も続いていくのかどうかはさっぱり分からんけど。

来年、小杉武久が国立国際でコンサートをする、という情報を得た。これは行きたい。


Gateway w323 UI1
英語版キーボードのラップトップはTV用に使ってたのだけど、何の対策もしてなかったからか、どうやらSpywareかVirusにやられたらしく、まずSpywareかVirusを何度も取り除いたけど取り除けず、やっぱし、ファイルを右クリックするだけで、CPU100%状態になる。
ので、ちょっと調べたら以下のようなページが出てきた。

エクスプローラで項目を右クリックすると、プログラムの実行�
Windows XPでExplorer.exeがCPUリソースを100%使用するバグが発覚 | ネット | マイコ�

5年前やんか、と思ったけど、これ、参考にしたら直った。
で、そしたらCPU100%状態はなくなったけど、Wiress network間のファイル・コピーがこれまでの数十倍の時間がかかるようになったので、システム・リストアして、今、終えたところ。

その前に、せっかくの機会だから再インストールして入ってるいらないソフト全て消してしまおう、と思ったのだけど、内蔵HDDのDドライブに入ってるので、何も用意しなくて良いと思ったのだけど、以下のように言われてにっちもさっちもいかんのであった。
"no recovery partition or update cd files found."!!!!!!!!


hosts windows system32 drivers - Google 検索:hostsファイルというものがあるらしい。
hijackthis - Google 検索:こういうソフトがあるらしい。
microsoft antispyware - Google 検索:案外評判が良い。


hostsファイルとやらを直したら、だいたい復旧した気がする(そうに違いない)。
後は今までどうり、なぜか有線LANネットワークと無線LANネットワークの混在ができない、という問題を、引越し後に解決すること。
これが解決できれば、もう!


今Ubuntuが入ってるラップトップで、録画した動画を見てて、だいたい生でテレビを見ることは無いので、まずこれでも困らないのだけど、ほんとうに時々はテレビを見たいので、TVカードがUbuntuで認識してくれないと、GatewayをUbuntuに変えてしまうことはできない。
ま、でももういっか。
デジタルになったら見ないだろうし。いつかまた「テレビ」買うことあるかな?PCは、起動が遅いけど。

2008年2月7日木曜日

Earle Brown: Chamber Works (DVD)

以下のようなことを考えました。
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Earle Brown: Chamber Works
Earle Brown
B000NDFHTS

Octet I (1953) (Project for magnetic tapeのE.Brownバージョン)以外は演奏風景が収録されている(けど、E.Brownの作品の演奏風景は、ぱっと見て奇妙なものだったりおかしく感じたりするものではない)。

sound composerとnote composerの区別について語っていたらしい。この区別は分かりやすいかも。
インタビュー(Earle Brown夫人と、Earle Brownに縁の深い演奏家の会話)ではアレクサンダー・カルダーとの関連(Calder aesthetic)についてばっか語られていて、ケージとの関係についてはほとんど語られず。なんでかな。
ケージ経由でしか知らない身としては、これは歴史の捏造もしくは「構築」に見えてしまうけど、実際にケージとはそんなに関係はなかったのかもしれない。emotionについて生き生きと語るゲンダイオンガク(家の妻)というのも大事だろう、とか、その程度の関心で聞き流してしまった。確かに「Earle Brownの全体像」というのはあんまし知られていないはずなので、僕が知らなくても不思議ではないはずだ(たぶん)。
だからといって「ベートーヴェン」とか「バッハ」のように、ゲンダイオンガクの作曲家たちも名曲全集や作曲家の伝記に回収されていく構図というのはおかしい気がする。
(そういう仕事がもらえたらするけど、あくまでも「紹介」に留まるもので無ければいけないと思う。)

今はこういう「ゲンダイオンガク」のディティル整理とか交通整理をしていくつもりはあんまりなくて、「ゲンダイオンガク」という表象の変遷とかに興味があるので、そういう人間としては、このインタビューが行われていた「部屋の様子」が気になる。
これ、どこだ?
バックにデュシャンの泉の写真がある、本がたくさんある、あーてぃすてぃっくな木造のお部屋。

K DUB SHINE - SAVE THE CHILDREN


びっくりしました。

DATE COURSE PENTAGON ROYAL GARDEN - MUSICAL FROM CHAOS2 [Limited Edition]

MUSICAL FROM CHAOS2
DATE COURSE PENTAGON ROYAL GARDEN 菊地成孔 坪口昌恭
B0007MCI4C

ながらで見た。DCPRGと略するらしい。かっちょいー紹介文がつけられるような代物らしいです。


WFMU's Beware of the Blog: Girls Who Loved Beatles and the Beatles Who Hated Them, "Them" Being "Beatles".:ビートルズに憧れている女の子の歌が四曲。ほぼ同時代に作られた真心ブラザーズの「拝啓ジョンレノン」みたいな感じかな、と思ったけど、全く違うな。時代も文脈も違う。真心ブラザーズは、時代も文脈も違うことくらいは分かってるし(分かってなかったら商品にしてはいけないだろうし)。

で、こっちは、ビートルズの二番煎じを目指したバンドの音。このWFMUの著作権問題はどうなってんでしょうねえ。
WFMU's Beware of the Blog: Fake Beatles No. 2: Battle of the Bogus Beatle Bands

2008年2月6日水曜日

Sun Ra - Sun Song

Sun Song
Sun Ra
B000004BEZ

Sun Ra & His Archestraの事実上のデビューアルバムだそうです。彼らがシカゴからカナダにツアーに行ってその帰りにNYに立ち寄ったらタクシーに追突されたのでそれから数年間NYに住み始めた、というそのカナダに出発する前に録音されたものだそうです。
久しぶりにライナー・ノート読もうと思ったところ、「病跡学的」がどうしたこうしたという始まりで、あ、もしかしたら、こういう思考はしても仕方ないよというオチかな、と思ってたけど、別にそんなことはなくて、なんとなく鬱陶しい文章だなあと思ってたけど、最後は、このアルバムは「デビュー・アルバム」なのでその後のアーケストラの様々な音楽的アイデアの萌芽が見られる、というのと、Sun Raをめぐる言説は、なんとなく最終的にSun Raを保護するかのようなスタンスがある、ってのと、Sun Raは、音楽的に格別に新しいことをしたわけではない云々ということが書いてあって、あ、ここは面白いなあ、と思ったら、菊地成孔が書いてました。
ま、あんまし、「音楽的には」(音とか和声の組み合わせだけでは)(音響的には)そんなに面白いものでもなく、「奇妙なビッグ・バンド」でさえなかった気がする。ライブで見たら面白いのかもしれんけど。

The Marvellous Aphorisms of Gavin Bryars: The Early Years

以下のようなことを考えました。
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The Marvellous Aphorisms of Gavin Bryars: The Early Years
Gavin Bryars John E. Davis Seth Josel
B000LP4OG0

「なまめかしい」とか「メロディアスな」とかいう形容詞は全く当てはまらないので、そういうのが好きなブライヤーズ好きには、全くはまらないと思う。
そういう心地よい音楽を作り始める前のハードコアな時代のブライヤーズに関心がないと聞いてられんと思う。
と思ったら、《タイタニック号の沈没 The Sinking of the Titanic》は1969年だったし、《イエスの血は決して私を見捨てたことはない Jesus' Blood Never Failed Me Yet》は1971年だった。
UKの1969-71って、フルクサス(あるいはケージ、あるいいはコーネリアス・カーデュー)以後、ブライアン・イーノ以前、という捉え方で良いのかな?
ブライヤーズが美術学校で教師やって、ポーツマス・シンフォニアを作った頃らしい。で、マイケル・ナイマンとは出会っていなかったらしい。
何か(ナイマン『実験音楽』とか)に回収される(それが悪いとは思わないけど)直前の"実験的精神"のドキュメントとして面白い。
こういうマイナーなことにもきちんと眼を向けていけるようにしておかねば。それがメジャーなもの/真実のものであるかのように勘違いしたら気持ち悪くなり始めるけど。

2008年2月5日火曜日

Duck and Cover (1951)

面白い。こういう発音だと早くても分かる。カツゼツってやつか?

Internet Archive: Details: Duck and Cover

『公式長編記録映画 日本万国博』

以下のようなことを考えました。
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公式長編記録映画 日本万国博
間宮芳生 谷口千吉 石坂浩二
B0008JH79A

れっとろふゅーちゃぁー!
羊毛をバリカンで剃る様子とか樵が木を切り倒す様子が、あの万博公園の真ん中で演じられていたらしい(1:47:00あたり)。これは面白いかも。
太陽の塔を乗っ取った(?)人は、1:00:00:くらいに数秒出てくる。
その次に出てきたのが104歳の老人。
日本国民のみならず世界中の人類が「みんな」が来た「バンパク」だったらしい。美辞麗句とはこのことか。
こんなに並ぶのは、ぜえったいに嫌だ!

通常の万国博覧会は、開催都市名を付けられる(パリ万博とかロンドン万博とかシカゴ万博とか)のに、「大阪万博」じゃなくて「日本万国博」という名称なのは、これが1940年に開催予定だった「紀元2600年記念日本万国博覧会」の生まれ変わりだったかららしい。
紀元2600年記念日本万国博覧会 - 中国占領地の切手、郵便: "紀元2600年記念日本万国博覧会"

市川崑の『東京オリンピック』の「面白さ」が際立つ。記録映画としてはこっちのほうが良いんだろうけど。
このDVDで初めて知った情報。
:大阪市とサン・フランシスコは姉妹都市

2:16:45以降に360°スクリーンがあるけど、それをラップトップの二次元で見る。なんだかよく分からん。

何かの資料として使えるかもしれない資料。
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校正って、もっとうまくできんもんかな、と思う。あんまし直さないことにしてるけど、誤字脱字は直さないといけないし。
そう、そして、昨日、「美学会本部幹事」の引継ぎ業務を、やっと全て終えました。終わってからポツポツとあったので、けっこうかかりました。後は立替書類を郵送して立て替えたお金が振り込まれるのを待つだけです。
「引継ぎ」なんかなかったけどあった振りをせねばとか、「引継ぎ」されてなかったことが原因でできない人間と見られるストレスのことは忘れてしまうのだ。

2008年2月4日月曜日

レコードの作り方

WFMU's Beware of the Blog: Record Making With Duke Ellington (video):エリントンは全然関係ないけど、ヴィニール盤の制作プロセスを見ることができる。レコード制作、っても、録音からはじまるのではなく、媒体としての、物質としてのレコード制作過程。けっこう手作業が多かったみたい。で、このくらいの短さなら英語がなんとなく分かる。

市川崑の『東京オリンピック』

採点を終えたので、以下のようなことを考えました。
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東京オリンピック
ドキュメンタリー映画 市川崑
B0001Z2VX8

ヤノベケンジに向けて、大阪万博の前に東京オリンピックのおべんきょーしよう、と思った。
だけなのだけど、本当にとても面白かった。

ナレーターの声(三國一朗)と「無名の日本人たち」の顔が良い。
最初のナレーターの声と、聖火ランナーの映像からして、単なる記録映画以上の期待を抱かせてくれたので、じっくり見ようとしてしまった。単なる記録映画にしたくはなかったという企図は信じられないくらい成功していると思うけど、現実の人間がこんなにフィクションの世界の住人みたいに見えて、それは良いのだろうか?と思った。

冒頭いきなり「オリンピックは人類の持っている夢のあらわれである。」と言われる。
「オリンピック」の理念とは、人類普遍の「世界の平和と友情」らしいけど、これは1960年代日本に特有の話なのか、市川崑の独創なのか、調べてないので分からない。
「世界中の国から日本にお客様がやってきた」というファンタジーや、WWII中のベルリン・オリンピックの話やらに触れないこと、等々は、明らかに「市川崑の作為的な痕跡」なので、この「東京オリンピック」をかるすた的なスタンスから色々検討したり、その西洋中心的史観を炙り出す等々の作業はきちんとしないといけないと思う。
でも、市川崑という人は、そういうことを「とりあえずは脇にどけておこう」と思わせるくらいに強力な物語を映像で語れる人だったのだなあ。
東欧や人種の違い等々の「問題」が、見事なまでに無視されていて、無視されているからこそ「統一的な物語」を形成しているのかもしれない。いちおうきちんと「原爆ドーム」は入れてあるし。
そういう意味で、これは、今の視線からは抑圧構造を持ったものとして理解されるだろう、60年代に典型的な物語構造なのだ、と言えるのかもしれない。
「全世界が一堂に集まることができる場所」を夢見ることができること、それが夢みたいな話だ。
だから「昭和」は流行してるんだろなー。
例えば"この十年の日本社会の退廃は、東京オリンピックから大阪万博の時代に、社会人となった世代がリーダーシップを取るようになったせいだと思っています。お祭り騒ぎはいいことだ、と刷り込まれているわけで、第二東京オリンピックも、社会の現実から目を背ける世代を育てることになるでしょう。"といった意見があるが、これは、僕のせいではないというメッセージを僕に伝えてくれるので採用しよう、と思ったりもする。
「夢見ることができた時代、それが昭和」とか、こんなコピーはどこかに売れないものだろうか。

映像に記録されている子どもたちや大人たちも今やけっこうなおじさんおばさんそしておじいさんおばあさんになっていることとか、自分もそのうちおじさんおばさんおじいさんおばあさんになることを思うと、友部正人の「にんじん」を聞きたくなってくる。みんな昔懐かしいおじいさんになってしまいそうだから。
音楽は黛敏郎らしい。


JOC - 東京オリンピック 1964
最初は黒澤明がするはずだったけど、降りたので、代役として市川崑が作ったらしい。
レニ・リーフェンシュタールの見たくなってきた。
谷川俊太郎とか安岡章太郎が関わっていたらしい。

2008年2月3日日曜日

ブルース・ランド ブルースの誕生

ブルース・ランド/ブルースの誕生
オムニバス
B000B52DHM

レポート採点しながらなのでほとんどきちんと見てないけど、僕はブルースの誕生についてけっこう知らないことを知りました。あと、ほとんど英語が聞き取れなくなっていて悲しいです。練習したら取り戻せると思うの練習し直さねば、と思いました。
節分の週末は人に点数つけて終わりそうで、人に点数をつけるという行為をどんな風に考えておけば良いのだろう、という疑問を(再び)得ました。季節の風物詩的な疑問に終わらないことを祈っておきたいところです。

2008年2月2日土曜日

The Audible Past

The Audible Past: Cultural Origins of Sound Reproduction
Jonathan Sterne
082233013X

聴覚型の技法あるいは聴取の技法(audile technique, techniques of listening)の歴史を辿れば、電話以前に電信が既にネットワークに特有の親密性を生み出すメディアであったこと、listening in searchは電話以前に電信が、電信以前に間接聴診法が担っていたものであること、等々のことが主張されるということが分かるのは面白い。(けど、"listening in search"というものの「最初」は果たして間接聴診法なのかどうかイマイチ納得できない。もっと他にありそうな気がするのだけど違うのだろうか。)

電信は、情報が伝達された遠隔地において、音が再生産される機械だから「口モデル」だ、ということを言ってみた。
音響テクノロジーの起源について考察した第一章で、僕は、音響再生テクノロジーの核心にはdeafnessがあったこと、音響再生テクノロジーは口モデルから耳モデルへと移行してきたということ、という二つが一番頭に残っていて(でも聾唖教育の歴史においては、フォノトグラフについては全く触れられないらしいけど)、特に「口モデル」と「耳モデル」というのは面白い話だ、と思ったので、色々なものに応用できる思考ツールとして使えるものにならないだろうか、と思っていたので、20世紀後半以降の様々な音響テクノロジーに使おうとしてみているのだけど、あんまし上手くいかない。
とりあえず、初音ミクは、サンプリング音も使っているし、「口モデル」と「耳モデル」の「混合」らしい。
そんで、「口モデル」と「耳モデル」という二分法だけではどうやら上手くいかなさそう、ということが分かった。「(音を生み出す装置としての)楽器」を、情報入力のフェーズと、音響再生のフェーズに分けて、縦軸がその二つで、横軸が「口モデル」と「耳モデル」の二つの、四象限くらいに分割したら上手く使えるかもね、という意見を貰った。
けど、帰り道に気付いたのだけど、「口モデル」と「耳モデル」は、あくまでも19世紀の音響再生産テクノロジーを念頭に構築された理論的モデルなのだから、「楽器」にそのまま使おうとするのは、たぶんけっこう間違えている。むしろ「楽器の分類モデル」みたいなのを考えて、「古典的な楽器」と「MIDI」と「サンプラー」とかとを比較分類するのに「口モデルと耳モデル」の違いを組み込む、という使い方をすべきなのかもしれん。
「口モデル」と「耳モデル」をもっと使える形で整理して組み込んだチャート式の思考ツールのようなものを作りたい。
と思ってるのだけど、それは僕の次の論文には使えるのだろうか?

あと、ボアダムズは日本発のアフロフューチャリズムだ、という与太話も試してみたのだけど、「アフロフューチャリズム」というものはあまりにもサブカル的に固有の意味を持つものなので、ちょっとやめといたほうが良さそうだ、と思った。「アフロフューチャリズム」に込められている固有の文化的意義を軽く見過ぎていたので、これを一種の思考ツールとして使えるかも、と思ったのだけど、これはそんな汎用性のある概念ではない。

あと、なぜかPerfumeの魅力のポイントについて激しい討論が行われていたのだけど(ああいうのに「ちゃんと」対応するのは偉いと思う。感心した。)、その魅力の一つはMCだ、という僕の論拠の一つはこれ。
TBS RADIO 954 kHz|JUNK2 エレ片のコント太郎


コトノハ - 4分33秒
川原泉に「3分44秒」という題名の作品があるらしい。

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