2008年2月15日金曜日

大谷能生『貧しい音楽』

昨夜やっと読んで、以下のようなことを考えました。
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貧しい音楽
大谷 能生
4901477358

僕はなぜ「この手の批評」を全く受け付けないのか?個人的な問題として考えていくこと。

日本の電子音楽東京大学のアルバート・アイラー―東大ジャズ講義録・歴史編にクレジットされてる人の本だし、帯に「ジョン・ケージは関係ない。」と書いてあるのだから、僕の興味や疑問に色々な方向から応えてくれるだろうと見込んでいたのだけど、個々のフレーズが頭に入ってこない。けっこうな割合は僕の問題で、けっこうな割合はこの本の問題だと思う。

この本は真摯に書かれていると思う。そして「日本の即興演奏」という対象の良さを真摯に追究しようとしていると思う。ある種の音楽を豊かなものとして感じるための試みなのだから、こうした方向性の文章は書き続けられるべきだと思う。音楽を貧しく聴くことしかできない人間というのは、必ずいるのだから(この場合の「音楽」が何か、とか「貧しい」とはどういうことか、とか、貧しく聴くことの是非とかはおいといて)。

ただ、「最新の音楽に関する最新の思考」であるかのような言葉が並んでいるけど、

1.「現在の音楽」を取り巻く状況に関する歴史的考察 と、
2.今までになされた思考への参照 

が無さ過ぎる。そして、

3.思考対象(「日本の即興演奏」)や自らの思考が属するコンテクストの狭さへの言及

が無い。僕が受け付けないのはこれが原因かな?「批評」とはいえ問題だと思う。
詳しくは自分用にメモしておくとして、以下少し、批判して誉める、と。

以下の感想から分かるように、ある程度でも頭を動かして批判的に読んだのは、基本的に「Improve New Wave」と「ジョン・ケージは関係ない」だけです。


「批評」とは、ある対象に触発されて、その対象から離れた地点で思考を展開させ、結果的に、その対象からは引き出せない類の思考を新たに生み出す、ある種の芸だと思う。で、「批評」は、「学問」ではないのでいちいち先行文献を細かくチェックする必要はないと思うけど、あまりにも先行する思考を無視し過ぎるのは「先行する思想を無視する人々」の間で「自閉」していくことでしかないと思う。
なので、自閉していく思想は批評ではないと思う。

それ以上に問題なのは、思考対象と自らの思考が属するコンテクスト(の狭さ)への言及が無いので、ここで考察される「音、聴くこと、音楽を作ること」が、かなり限定された領域での「音、聴くこと、音楽を作ること」でしかないことがほとんど言及されていないことだろう。というか、されてるけど前面には出されてないので、きっと学生たちがこの本をやたら拡大解釈してレポートを書きそうなのが僕は怖い。だから、『貧しい音楽』でなされる「音、聴くこと、音楽を作ること」等々にまつわる思考は、まるで「根源的な」もののように思われる、という新興宗教的なものにまつわる問題があると思う。

「ケージの無目的な音楽」とは異なるものとして「即興演奏」を位置づけようとするのは理解できる。しかしだからといって、「音」に関する思考を結局のところ「音楽」にしか回収しないのなら(ある種の音楽全体主義の立場に立つのなら)、それは、かなり大きな領域を無視して排除していると考えるべきだ。ここで言及されるジョン・ケージはせいぜい1960年代までのケージな気がするし、「音楽」以外の領域に「音」を開放していこうとした、1970年代半ばのケージ相対化の動き(ケージ的なニュートラルな音響理解を否定し、相対化しようとしたサウンド・アーティストたち)、あるいは、そうしたアヴァンギャルドな音楽ではない音楽(クラシックでもジャズでもビートルズでも初音ミクでもZOOでも田端義夫でもまいこーじゃくそんでも吉田たくろうでもなんでもいいけど)や、声を用いた芸能やら芸術やら、あるいは、芸術以外の領域における「音、聴くこと」にまつわる実践や思考が排除されるじゃないか。
ちょっと悪意を込めて解釈すれば、ここで「ジョン・ケージは関係ない」と述べることで作り出される領域は、ジョン・ケージとは異なる独自の領域を切り開いた音楽のための領域、というよりも、ジョン・ケージ(やその他の領域)を無視することで作り出される自閉した領域でしかないんじゃないか、と解釈できてしまう。「ジョン・ケージは関係ない」というのは、ジョン・ケージとは異なるオリジナリティ溢れる領域がある、という意味ではなく、小島よしおのように「そんなの関係ねえ」と述べることで、自分(たち)をオリジナルな存在として表象できる領域を確保しようとするだけの言葉に見えてしまう。
オリジナリティを獲得する一番の早道は、比較対象を減らしていくことだ。極端な話、自分以外に音楽を作る人がいなければ、自分が作る音楽は全てオリジナリティに溢れたものになる。あるいは、自分が作り出す音楽に似ているもの、自分が作る音楽に影響を与えたものを無視すれば、それは「オリジナル」なものであるかのように見える。ってことは、ジョン・ケージなんか関係ねえ、と宣言することは、ある種の「父殺し」に見えてくる。そしてこの種の「父殺し」は、ケージ以降の世代がずっとしてきたことだけど、少なくともケージ以降の世代は、ケージを「無視」はしなかった。
「ジョン・ケージは関係ない」という言葉は帯には持ってこなくて良かったんじゃないか?この本の目的にとってはそんな大きなテーゼでもないんだし。


ただ、この本は、矮小化して解釈して「日本の即興演奏」が持つロジックの「解説」だと考えると、素敵だなあ、と思う。
真摯に思考されて書かれているし、「日本の即興演奏」なる対象を「良いもの」として味わうためにはどのような方法が可能か、ということに関する示唆を得ることはできるのだから。
僕も「マイナーな音楽」はやぶさかではないけど、僕にはこういう真摯さはあんましないし、こういう文章は書けんしなあ。
なんやかや思うけど、「読み手」に「音楽」の魅力を感じさせる文章を書けるってのは羨ましいなあ。僕もがんばらねば。

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参考1:僕が眼にした順番
大谷能生の新・朝顔観察日記 ? 「貧しい」感想


大谷なんて関係ない! - musicincoloursの日記
:初めて「トラックバック」とやらを送ろうとして、Bloggerにはその機能が無いことを思い出してやめた。


大谷能生の新・朝顔観察日記 ? 新商品のお知らせ その他


北里義之『サウンド・アナトミア』も、何か? - musicincoloursの日記


10年の軌跡 貧しい音楽 - 大友良英のJAMJAM日記


参考2:ウェブサイト
大谷能生の新・朝顔観察日記


参考3:好意的な書評が多い。
[Long Article] 2007年のベスト10:野々村 禎彦:関係ないけどYasunao Tone: Noise Media Language。一年前にamazon.comに「予約注文」したのに「品切れ」で買えず勝手にキャンセルされ、その後、ずうっとamazon.co.jpに予約し続けていて、昨日発送のお知らせが届いた。楽しみだけど引越しのどさくさでチェックできるだろうか。

参考4:最初に出てくる、デューク・エリントンの演奏を録音するレコード初期の映像
2月4日にポストしたこれだ。


えらい怒ってる。人が一生懸命した仕事をけなすというのはどうなんだろう。怒る必要がある時はあるとは思うけど、「音楽批評」とは、それほど聖なるものなのだろうか。
いい話を聞いた - musicincoloursの日記

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