2008年3月1日土曜日

The auditory culture reader

自分が使える「ツール」を増やしていかねばいけないと思ったので整理していくことにしました。
でも「ツール」は増やせず、開拓すべき地域の探索で終わった気がする。
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Auditory Culture Reader (Sensory Formations Series)
Michael Bull Les Back
1859736181

The Auditory Culture Reader(かたく訳すと『聴覚文化読本』あるいは『聴覚文化リーダー』)。
(自分の視野の狭さが大きな原因だったと思うが)「音楽学」の狭さに辟易していた当時、出た時は、何と画期的な本だろうと感動したけど、もう5年前。出た時はこのアンソロジーには余り面白みを感じなかったのだけど、この頃、この手の「聴覚文化」関連のリーダーが一度に数冊出版された。実は全て隅から隅まで読んだわけじゃないけど、そういう読み方を必要とする本ではないと思う。

1.全体の内容
IからIVは音楽ではなく「音」にまつわる論考が、Vでは音楽にまつわる論考が集められている。それぞれ、「音(×音楽)」について研究するための幾つかのアプローチ、それから、非音楽学的な(というよりも非楽曲分析的な)、音楽について研究するためのアプローチが集められている。それぞれの効用は、音あるいは音楽に対する幾つかの学的アプローチを教えてくれること、と言える。

そうした様々なアプローチがあることから分かることは、

対象が「音楽」ではなく「音響」でも、美学的・哲学的考察は十分可能なこと
「歴史学」の領域では、過去の聴覚文化(あるいは音響文化)を取り扱うための方法論がかなり成熟していること
音楽経験ではなく、聴覚経験を通じた世界経験の構造を分析するアプローチ(と言って良いかな?)が、様々な文化社会に適応できること
「都市のサウンドスケープ」を論じる際には、不十分ながらも部分的あるいは断片的に「分析」していこうとする論じ方があること
非楽曲分析的な、音楽について研究するためのアプローチはあるけれど、僕は、例えばディアスポラとかポストコロニアルとかにまつわる問題についてあまりにも不勉強であること

かな。
「音響」を哲学的考察の対象とすることは可能だし、「音響」を歴史的資料として扱う方法論はかなり成熟しているし、聴覚経験を通じた世界経験を分析するアプローチとしては「音響認識論」があるし、「都市のサウンドスケープ」を論じるアプローチは現在(5年前だけど)探求中だし、僕は、カルチュラル・スタディーズ的な問題圏について不勉強、と。
当面、僕が関心があるのはKarin Bijsterfeldの論文で、当面、僕は、歴史の中で音という資料を扱う方法を具体的に少しずつ身につけていく必要がある。

2.各パートの内容
後は細かいまとめなのでブログに投稿しなくても良いなあ…。これは死にかけた後の僕のブログ作法が惰性で続いているだけなので、こういうの、もうやめていこう。これ、最後。
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PartI - Vを、多少ぎこちなく訳すと、それぞれの役割が分かりやすい。それぞれ、

I.音について思考すること
II.音のさまざまな歴史
III.音のさまざまな人類学
IV.都市のさまざまな音
V.音楽と共に生きて思考すること

と訳せる。Iでは哲学的な論考が、IIでは歴史学的な論考が、IIIでは人類学的な論考が、IVでは都市論的な論考が、Vでは音楽学的な論考が集められていて、全て、(視覚的側面ではなく)聴覚的(音響的)側面を重視するもの。

2-1
Iでは「音楽」ではなく「音」に焦点を絞った、哲学的な論考が集められている。
対象が「音楽」ではなく「音響」でも、美学的・哲学的考察は十分可能であることを教えてくれる。ただし、これらはシェーファー以後の「サウンドスケープ」にまつわる思考、ではない。そのうちメルロ・ポンティとかが召喚されそうな方向だと思う。

2-2
IIでは、聴覚文化(あるいは音響文化)の歴史を扱う、歴史学的な論考が集められている。
「歴史学」の領域では、過去の聴覚文化(あるいは音響文化)を取り扱うための方法論がかなり成熟(?)していることが分かる。個人的に参考になったのは、自著の方法論を説明しているBruce R. Smithの論考だけど、一番面白かったのは、Karin Bijsterfeldの、1900-1940年代のUSAとヨーロッパにおけるnoise abatement(騒音削減運動?)の流れを整理した論文の抜粋。

聴覚文化を扱う歴史学の論考は方法論がかなり整備されているようなので、ある程度までは、論文の評価は外形的に下せる。方法論がいい加減で、例えば、まだシェーファーのearwitnessしか出せないなら、それは不勉強な論文。(シェーファーは基本というか始点なのでかなり頻繁に言及されるけど、Truaxとかのほうが言及される気がする。印象でしかないけど。)
また、方法論が整備されているので、しっかりした論文は何が明らかになったか明確なので読後には何かを得た気にはなれるけど、関係ない論考はやっぱり関係ない論考でしかない場合が多いので、論文の対象は何かということには気をつけること。例えば僕の場合、Bruce R. Smithが(自著で)扱っているらしい1600年ごろのロンドンの聴覚文化に対する歴史的考察は、あんまり利用価値がなくて、Karin Bijsterfeldの論考は、かなりある。
ま、何やっても無駄になることなんかない、とも言えるし、関係なさそうな論考なのに読後大いに触発される、という事態をゼロにしてしまってはいけない。そういう出来事こそが読書における最重要の事件である場合は多いのだから。

2-3
IIIでは、人類学的なアプローチで聴覚文化もしくは音響文化を扱う論考が集められている。つまりはもちろん、スティーヴン・フェルド『鳥になった少年』におけるようなacoustemology(音響認識論)的な論考が集められている。
音楽経験ではなく、聴覚経験を通じた世界経験の構造を分析するアプローチ(と言って良いかな?)が、様々な文化社会に適応できることを教えてくれる。

ただ、Jo Tacchi "Nostalgia and Radio Sound"には多少拍子抜けした。ラジオ聴取行為における「ノスタルジア」を否定的なものではなく肯定的なものとして捉えるアプローチが新しいのかもしれないけど、なんだか「人類学」というディシプリン内部での議論構造だけが問題になっているように思えて。

2-4
IVでは、特に都市のサウンドスケープを分析しようとする論考が集められている。なぜ「都市の音」だけが特権化されているのかいまいち納得できないけど。「現代の人間」は、程度の差はあれ、(田舎に住んでいても)「都市」に住んでいると言える(田舎には雑踏は時々はあるもんだし)、と考えて納得してみよう(なんか違う気もするけど)。
「都市のサウンドスケープ」を論じる際には、不十分ながらも部分的あるいは断片的に「分析」していこうとする論じ方があること教えてくれる。
分析対象を、サッカー球場や車のサウンドスケープに限定する、とか。あるいはJean-Paul Thibaudのように、ウォークマン的な聴取を分析する際に、ウォークマン的な聴取が持つ特徴的な性格が観察される代表的なトポスを「Doors, Bridges, and Interchanges」と分類してみる、とか。
きめ細やかな分類項の提出とかよりも、とりあえず「今後の考察の足場となるような分類項の提出」のほうが(少なくとも僕には)役立つことを教えてくれる。
それともこういうタイプの考察は、WORLD SOUNDSCAPE PROJECT とかで、既になされていたりいはしないのだろうか?と思った。

2-5
Vでは、非楽曲分析的な、音楽について研究するためのアプローチが集められている。
ただし、このリーダーに収められている論考はかなり凝縮されているので、土台となる知識を知らないと難しすぎてあんまり理解できないので、非楽曲分析的な、音楽について研究するためのアプローチはあるけれど、僕は、例えばディアスポラとかポストコロニアルとかにまつわる問題についてあまりにも不勉強であることを教えられる。

ので、ちゃんとせんといかんなあ、と思うのだけど、このパートの幾つかの文章は、正直、アマチュア・ミュージシャン(もしくはせいぜいセミプロ?)の自分語り(という名のエッセイ)にしか見えないと思う。違うか?あと、なんでThe Auditory Culture Readerというタイトルのリーダーの最後に「音楽」に関する論考を持ってくるんだ?という不満(のようなもの)もある。

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