2008年9月24日水曜日

Silence-MLから知ったこと:ケージの伝記的事実について

ジョン・ケージ関連の情報のためのメーリング・リストで知ったことです。

1.
Kyle Gannというアメリカの音楽学者(僕は、この学者さんの仕事の中では、ラ・モンテ・ヤングの専門的な論文と20世紀「アメリカ音楽」史の本を使います。)がジョン・ケージに関する本を書いていること

2.
Kyle Gannが、ケージのクロノロジーを決定するのは大変だ、という文章を、artsjournalというウェブサイト(?雑誌?)のブログにポストしていること



2について
Cleaning Up a Life - PostClassic
僕の英語の読み違いだろうか?
カイル・ガンは、楽譜の分析ではなく、作曲家が何々した年代とかの確定こそが「real musicology」だ、と書いているように読める。
伝記的な事実の確定は前提として必要だし、それは/それも音楽学の重要な課題に違いない(他にする分野はないし)と思うけれど、でも、それだけが/それこそが本来の、音楽学だと思えるわけがない。やっぱ「who cares what year he saw the anechoic chamber?」と思うじゃないか。
(でも、そういうのこそが本来の音楽学だ、ってことになったら、論文は量産されるし、なので業績量も増えるし、「学会は発展」するんだろーなー、と思った。)
(重箱の隅をつつくことが学問なのかもしれんぞ!)
(「チュードア学」とか「ケージ学」とか「フェルドマン学」とかいっぱい作ったら「チュードア学を学ぶ人のために」とか「ケージ学を学ぶ人のために」とか「フェルドマン学を学ぶ人のために」とか色々な教科書の需要があるかのような気にもなるし。)
(と誰かに言ってみる。)

アメリカでは、シェンカー的な音楽学の影響がそんなにも大きかったから、楽譜分析だけではない音楽学を提唱することが未だにホットなのか?でも「ニュー・ミュージコロジー」ってのが言われ始めてもう20年たったんじゃないのか?
このポストは、アメリカでは、そして、もっと狭い「新しいケージ学(とでも言えるような狭い領域)」(ケージに関する博士論文という学的業績が、普通に量産されるようになったのはここ10年くらいの話)では、誰にどんな風に受け止められてんだろう?
僕はUSでは、そういう人たちとは縁を持たずにDouglas Kahnのところにいたのだけど、Dougはたぶん「音楽学」に嫌気が差しているので、はなから気にしないだろう。日本は狭いのでそういう態度じゃ成立しない気がするので、気にかけておこう。



メモ:カイル・ガンの論拠
1.
ケージとデヴィッド・チュードアは、モートン・フェルドマンを通じて(チュードアもフェルドマンもステファン・ウォルペの弟子だったので)、1950年1月26日に会ったと言われている。
しかしチュードア学者(何やねん、それ)のJohn Holzaepfelによれば、チュードアは、ケージと当時の妻(ゼニヤ)が初めてNYに来た時に住んだアパートメントにいたJean Erdmanというダンサーの伴奏もしていたので、ケージとチュードアは、エルドマンを通じて会っていたと思われる。

2.
ケージとロバート・ラウシェンバーグはブラック・マウンテン・カレッジ(BMC)で会ったと言われている。しかし、ケージがBMCを訪れたのは1948年の2回で次が1952年なのに対して、ラウシェンバーグがBMCを初めて訪れたのは1949年。そして1951年に、Irwin Kremen(4'33''を献呈された人)がケージのアパートメントにラウシェンバーグの絵画があるのを見ている。

Irwin Kremenとラウシェンバーグの伝記作家のWalter Hoppは、ケージとラウシェンバーグはNYで出会ったと考えている。1951年の秋にラウシェンバーグの大規模な個展があり、ケージがそれに行ったと考えている。
ジョン・ケージ・トラストのローラ・クーンが言うように、ラウシェンバーグは1952年にケージの招待でBMCを再び訪れた、ということは、何らかの証拠がない限り信用できない。

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