メディアアートの教科書
白井 雅人 森 公一 砥綿 正之
白井雅人・森公一・砥綿正之・泊博雅(編著) 2008 『メディアアートの教科書』 東京:フィルムアート社。
岩城覚久くんに頂きました。キーワード解説を書いているそうです。去年の仕事なんかな。ありがとう。
日本語で「メディアアート」(なぜ「メディア・アート」じゃないのだろう?)と呼ばれるような芸術作品はあるけど、それがある程度確定した領域のものとして語られ、その歴史的背景とか、現在それらが置かれている状況とか省かれて語られると、うさんくさいものでしかないと思うので、「メディアアートの教科書」ってうさんくさいなあと思ったけど、予想とは違いました。
この手の領域の芸術作品に初めて触れようとする人にとって、良い教科書だと思います。「メディアアート」と呼ばれるようなものの「美術史的背景」としての様々なアヴァンギャルドの系譜とか、技術的背景とか、網羅的である必要はないけど、短めの分量でまとめてくれてあるので。メディアアートの音楽史的背景の記述が単純化された「ゲンダイオンガク」史でしかないのは納得し難いけど、でも、初心者にとっては必要な知識だと思います。
「第一章 メディアアートの流れ」と「第二章 メディアアートの諸相」と第五章の年表とキーワードを便利に使おうと思います。
この本に限らず、最近ますます「この手の」記述を読んで違和感を感じるようになってきた、という話。
結局、「芸術学」が語れるのは、「自律したアートの歴史」とか自閉した芸術史に過ぎないのかな?「芸術学の一部」なのか「芸術学」なのかは分からないけど。やっと「芸術学の呪い」から解き放たれてきた、ということかもしれない。(それは必ずしも良いことではないかもしれないけど。)
そんなこと考えるようになったのは、最近「自分の専門領域は、「ゲンダイオンガク」じゃなくて『耳と音が関係する分野』と言い張っておくことにしよう」と考え始めたからかもしれないです。それが具体的にどういうことかは今後考えていくとして、まずはでかい口叩いて後から辻褄合わせる、というのが正しいに違いない。
ちょいと気になったこと
テルミンの「発明年度」は文献によって記述が一定していないので(前身の機械が発明された年、テルミンの働いている研究所で公開された年、クレムリンで公開された年、等々のうち、どれにするかで異なるので)、僕は「テルミンの発明年度」の記述が少し気になるのだけど、この本では1919年でした。
最近の僕の中での流行
昭和な歌謡曲たち。懐かしい、と思うけど、流行した年を考えると、本当に「懐かしい」ものより昔のものの方が多くて、最近初めて聞いたものが多い。こういうジャンルもののコンピレーションとしてCD10枚組みとかでリリースされないだろうか。「JPOP」には興味ないけど、昭和な歌謡曲のためにならカラオケに行っても面白いかもしれない、とさえ思いました。別に他の人と全然違うつぼに入っているわけではないので、人に言っても仕方ないのだけど、僕は今までこういうテイストにはほとんどはまってこなかったので、大変新鮮です。「最近好きな音楽は、歌謡曲です。」
今日の一曲
この二人は姉弟。
昭和歌謡大全集 (幻冬舎文庫)
村上 龍
この本に刺激された。
よう似てる。
今日思ったこと
正直、午後の大半はその面白さが全然分からなくて面白くなかったけど、最後の10-20分ほどが劇的に面白かった。無礼な人と礼儀正しい(というか"普通"の)人の、礼儀の基準とか学会での行動基準とかが違ってちょっとしたギクシャクがあって、まあ別に僕はどっちが正しかろうとどうでもいいのだけど、そういうギクシャクがあった当事者ではなく、同じ会場にいた別の学部生が、激昂して、司会がそれを適当にかわしたり、なだめたり、怒ったり、ギクシャクの当事者がその学部生の怒りに乗っかって司会者に突っかかったり、等々等々。
礼儀正しさの基準とかどっちが正しいかとかはどうでも良いのだけど、どうやら僕は、何でもいいからそこでごちゃごちゃが起きたら嬉しくなることに気付いた。
そう、僕は、ゴタゴタが好きらしい。はっきり意識して気付いてしまった。
その学部生とその学部生が突っかかっていった司会者の両方を応援するために、もう少しで拳で机をたたき出すところだった。
僕はゴタゴタが好きらしい。
ただし他人のゴタゴタ。
これ重要。
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日本記号学会第28回大会「遍在するフィクショナリティ」 - キリンが逆立ちしたピアス
短信: 日本記号学会第28回大会「遍在するフィクショナリティ」
Hatebladder - 日本記号学会第28回大会「遍在するフィクショナリティ」
2008-05-10 - ひびのこと
:あそこで起きてたクスクス笑いの原因は、セクシュアリティに関する基本的な論件や常識程度のことが踏まえられていないからじゃないと思いたい。そこまでバカばっかじゃないだろう。
:ああいう「BLなんて十代で卒業すべきだ」とか「ゴスロリで大学に登校する学生は痛々しい」とかいう発言が面白かったのは、自分たちがマジョリティであることを確認できたという安心感とかじゃなくて、データベース消費型というか専門分化に過ぎるというかそういう意味でオタクっぽい議論しか行われていない状態を、そういうバカな発言をしてみせないといけないくらい頑張って司会者は崩そうとしているけど、どうやら多分徒労に終わりそうだってのが見えたからじゃないのか?僕はそれが面白かった。
:だからといって、勝手に被害者意識を持ちやがる奴は鬱陶しいとかは全く思わなくて、そういう発言を不愉快に感じる人はたくさんいるし、それはもちろん「正しい」と思う。
:自分とシンポジウムにいる人間たちの視線を、自分と彼ら/彼女らに見える領域の外側へと触発するためには、「誤解」されがちな「BL」とか「腐女子」とかはとりあげなければ良いのに、と思いました。「不適切」云々という判断基準で考え始めると(「BL」とか「腐女子」とかはそういう基準で考えるべき論件なのかもしれないし)、USA的なPCがどうしたこうしたの議論になるかもしれなくて、他の議論も不自由な気分になるかもしれないじゃないか。
:まあとにかく、5/10/2008に、僕はゴタゴタが好きだ、ってことを自覚した。
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日本記号学会。 - 0007 文藝檸檬
日本記号学会(2)。 - 0007 文藝檸檬
日本記号学会(3)。 - 0007 文藝檸檬
2008-05-13 - vivement mercredi!
研究会日乗
日本記号学会大会「遍在するフィクショナリティ」 - 再イオン
続・舞台裏日記:記号。 - livedoor Blog(ブログ)
:境界線が曖昧だからそこを手探りで議論しあっていく云々とか言ってるけど、だからって大したことができていたようには見えなかったのだけど、何してたんだろ?「ジャンル論」じゃなかったのか?
:私見では「守られるべき文化←→BL」みたいな潜在的なイデオロギーの対立図式があったかどうかは問題ではなかったと思うので、この「両者」の立場は、対立軸として噛み合わないと思う。司会者側は、BLが「ブンカ」かどうかを議論するつもりはないだろうし「守られるべき文化」を守ろうとは考えていないと思うので、「司会者側がBLをブンカとして認めないこと」を非難したとしても、大して生産的な議論にはならないと思う。
:というか、背後に文化的な階級意識がある、という言い方は、人を非難するのに便利な図式なんだろうなあ。だから、「BLなんて十代で卒業すべきだ」という発言をすれば、簡単に、そういう階級意識を持つ存在として表象させられてしまうのだろうから、やっぱBLの話はしなければ良かったのではなかろうか。
:その場の状況をあまりきちんと把握しないままに評価したり非難したりする、というのは、何だろう?「評価したり非難したりすること」というのはある種の快楽なのかもしれない。
:まあ、人を責める言葉が発せられていても、もうあまりたいして面白そうなことになりそうな匂いはしないから、もう検索するのはストップ。あと、誰がどんな風に収拾をつけたのかは、噂話で入って来るに違いない。
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噂話じゃなくMLで入ってきた。これでケリが付かなかったら、もうグダグダ感しか残らないだろな。
吉岡洋:何でもないことの幸せ
:「何でもないことの幸せ」だけでは生きてはいけないけど、「何でもないことの幸せ」を否定することは難しいと思う。それに、「何でもないことの幸せ」をめぐって生産的な議論を行うのって、どうするんだろう?
:死にかけた経験は「何でもないことの幸せ」を経験的に身体に教え込んでくれるものだったけど、そのことを思い起こさせる文章というものは、なぜ、どのようにしたら、産み出せるんだろうか?これは「書くことの技法」程度の問題なんだろうか?
あと内輪な別件:5/14/2008に削除
(自分が被害者意識みたいなのにへこまされてたり精神的に弱ってる時に自分以外の人間に悪意を向けて陰口叩いたみたいな文章だったので削除。陰口叩いてたのは自分だった。しかもオンラインで。反省。)
(でも、ブログには、人のせいにしないものなら何でも書いておいたら良いのかもしれない。思いもよらない反応がある時もあるので。)
なんにしろ、あんまし上手く説明できないけど、中学、高校、大学、と、体育会系的な上下関係に(上の立場としても下の立場としても)うまく入り込めた試しがない。
2008年5月11日日曜日
メディアアートの教科書
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