以下のようなことを考えました。
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Solo for Wounded CD
Yasunao Tone
下みたいなポスト書いた後、このCDを聴いて感動に打ち震えた。メジャーを志向しつつも(してるかな?)、僕の嗜好は幅広くマイナーなものも含んでるのだ(「しこう」って言葉が多い)。
CDの裏にテープを貼り付けて、そのCDをCDプレイヤーにかけて再生させて、意図的にthe error correcting systemが処理できる以上の誤差を産み出して、「ノイズ」を作る、という音楽。つまり、CDのジッター音が再生され続ける。Ovalとの違いは、ジッター音を「再構成」はしないこと。ジッター音をそのまま使うとOvalのような音にはならないと思うので、Ovalは、かなり(どの程度、どのように、かは不明)「再構成」していると思う。
CDプレイヤーという、今の(?一t昔前の?)僕らが「音楽」に触れるために最も身近なインターフェース(とはいえ、僕はもうCDプレイヤーを通じて音楽を聴くことはほとんどなくて、99%はoggで聴いてるけど)が内在的に持っているメカニズムを、騙して宥めすかして(?)搾り出した音の連なり。
この僕の「感動」を豊かに物語る能力を身につけなければいけない。この音響作品(音楽)の"素晴らしさ"を、自閉した領域内部にしか通用しない言葉遣いではなく、語ることができねばならない。で、この音響作品(音楽)の「狭さ」にも言及しないといけない。
リオタールを読んで以降の僕は、大きな物語を語りたいとは思わないけど、小さなものに名前をつけてそれをどこかに位置づけるという作業を継続していかねばならないと考えるようになったので。
でもどうしたらいいんだ?
「案:『音楽』を運搬するメディアが、実は、一秒後の音の行方を予測することもできず、こんなにも多様な相貌を持つ音を産み出すことができるメカニズムを持つものであることを露にする音響作品(音楽)。」
なんかどんどん「詩的」な表現に向かってしまいそうだ。この「多様さ」なんか、疲れてる時には「ただの平坦なノイズ」としか聴こえないし。
個人的なことを言えば、「芸術」の効能の一つは、何かに対する、それまで持っていなかった新しい視線を教えてくれることだと思う。なので、この音の連なりを聴くと、CDプレイヤーとか「音楽」を運搬するメディアに対して今までとは違う新鮮な視線を持つことができるようになるので、この作品は面白い。
終わったら僕の耳は安堵するので、何回も聴き直すことができるものではない。でも、「音楽」とは必ずしも何回も聴き直すべきものとは限らないと思う。
なかなか人に薦められる音楽じゃないなあ。
2008年2月15日金曜日
Yasunao Tone - Solo for Wounded CD
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