2008年11月29日土曜日

John Cage 100th Anniversary Countdown Event 07-12

先々週とは違って、面白かった。
企画者の意図とはずれた面白がりかただと思うけど。
詳しくは後で補足
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「small」とか「Bold」とか使って文章を構造化して見やすくしようと思ったけど、なんともならんので、今後はもうやめとこう。
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先々週の高橋悠治レクチャーコンサートとは違って、基本的には面白かった。

Rozart Mixが面白かった。
京都芸術劇場の舞台を体育館みたいな部屋にして、そこに人をバラバラに入れて、オープン・リールを8台置いて、演奏者がテープ・ループを数分毎に変え、結果的に8つの音源がけっこう大きい部屋の中でバラバラに再生される、という作品。
「カオス」というか、後にケージが「サーカス」と呼び始めるような状態なのだけど、要するに、部屋のあちこちから何個も音(音楽)が流れているという状態で、ああいうのは、こっちは適当にぶらぶらしてたら良いから、面白い、というか楽


第二部からは普通に席に座ってゲンダイオンガクを聴くのだけど、基本的には「重ね合わせ」作品が多かった。
「楽器演奏」は、最後のToy Piano(ケージの40年代のおもちゃピアノのための作品)とOne6(ヴァイオリンのための不確定性の作品)だけで、他は「重ね合わせ」の作品。
「重ね合わせ」の演奏(一度に何個かの作品が同時に演奏される)のは、面白い、というか楽集中して楽曲構造を把握せねば、という心理的負担はないし、飽きたらぼーっとしてたらいいのだから。
だから、椅子に座るんじゃなくてもっとリラックスできる体勢でいたかったし、もっと短いほうが良いな。「構造のない音楽」の「音の流れの面白さ」だけ聴くのは、(僕には)長時間できることじゃないので。
Inlets(貝殻に水を入れて、それをちゃぷちゃぷする音をマイクで拾う、というもの)も、カニンガム・ダンス・カンパニーのための作品なのだから、ダンスなしで聴くと長い。


どうやら、僕がジョン・ケージの音楽を好きなのは、構造的な聴取をする必要がなく、(短時間ならば)陳腐な音ではないと思えるから、らしい。
(1950年までのジョン・ケージの作品は、クラシック音楽の小品として佳曲と言えるものも多く、それはそれで面白い。)
長時間続くと、ジョン・ケージの音楽の多くは「陳腐」な音に聞こえてくると思う。飽きてしまうんだから、僕は「音フェチ」じゃないんだろう。



たぶん「ジョン・ケージの音楽を演奏している」という言い訳で、この演奏者たちは、自分の音楽(もしくは「音作品」)を提示してたんだろう。
「自分の音楽(もしくは「音作品」)」は「ケージの音楽」に影響されたものかもしれないけど、ケージは、言い訳に使ったのかな?と思った。良し悪しは別にして。

と思ったのは、解説とか挨拶が皆無だったから。
会場の挨拶も作品説明も皆無。あれじゃケージのことをある程度知らないと何も分からないのではないだろうか。
で、それは、ケージの作品「だから」説明も最小限で良い、という理屈なのかもしれない、と思った。


一番驚いたのは、第一部が終わったあと、京都芸術劇場の舞台から普通の席に客を移動させる時、何のアナウンスもなかったのに、何となく客が全員移動したこと。
100人以上はいたのにアナウンスなしでみんな移動してた。あれはなぜだ?


ただ、「説明なしで普通じゃない音楽を見せること」の意味が、ケージの時代と、今の日本とでは、意味が全然違うと思う。説明とか言葉がないほうが「スタイリッシュ」で「かっこいい」んだろうか?
「Inlets」って、大の大人三人が貝殻に水を入れてちゃんぷちゃぷさせてそれをマイクで拾う、という演奏してたのだけど、終わったら(一番右にいた大人が終わりの合図を出したらしい)、暗闇の中、右から順番に何の説明も挨拶もなしに花道を通って帰って行ってたのだけど、あれは、笑うところじゃないんだろう。
僕は、もしかしたら、(ゲンダイオンガクのコンサートで)笑わせて欲しいのかもしれない。

うーん。
失礼なこと考えてるかも知れんなあ。
けっこう手弁当でやってるだろうに。
2012年までうまいこと続いて、おっきなイベントになると良いなあ。
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帰りに東龍でラーメン食べました。
「ヤング@ハート」は、京都ではまだ昼間しかやってなかったみたいで、公開初日には行けませんでした。
絶対行くぞー。

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